創業天正14年! 日本最古の上場企業「松井建設」の社寺建築
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今日は、松井建設株式会社を取り上げる。社寺建築に高い技術力と実績があり、「社寺の松井」と呼ばれる会社だ。

 「日本の風土に根付いた伝統的な文化を新しいかたちで後世に伝えたい」そうした理念の元で日本の歴史と文化を支えている。そんな松井建設株式会社の社寺建設技術について調べてみた。

城郭や寺社の建設を手がける会社

松井建設株式会社がメインの事業にしているのが「城郭や寺社」の建設だ。

松井建設の歴史は1586年(天正14年)まで遡る。創始者の松井角右衛門が、加賀藩第二代藩主前田利長公の命を請け、富山県にある「越中守山城」の普請に従事したのが始まりである。

1593年には「伏見城」普請のため京に上り、同じ頃、兵火により失われた富山県の井波町にある「瑞泉寺」の再建に携った。その後、「瑞泉寺」との関わりは400年以上の時を経た今もなお続いている。

1586年(天正14年)というと豊臣秀吉が太政大臣になったころである。本能寺の変で織田信長が殺され、信長の後を継ぐような形で秀吉が天下を平定した。1586年(天正14年)に秀吉が太政大臣に就き、4年後には小田原城を制した。この小田原城は約370年後の1960年(昭和35年)、松井建設が復元工事を請負っている。

松井建設株式会社は安土桃山時代から続く老舗会社なのだ。日本の上場している企業の中では、最も古い歴史を持つ会社である。

関東大震災でその名が広まる

松井建設株式会社は、法人化する前は「松井組」と呼ばれていた。松井組の名を一躍有名にしたのが関東大震災の復興活動である。

もともと松井組は富山県井波の地を拠点に社寺建築に励んでいた。戦国時代の末期から江戸時代の終わりまで富山県の前田藩一筋に仕えていた一族である。

そんな松井組に転機が訪れたのは、1923年(大正12年)の松井家第十五代松井角平のときである。1923年に未曾有の災害「関東大震災」が起きた。松井角平は、見渡す限りの瓦礫の山を目の当たりにし、「帝都復興こそ建設に係る者の使命」と強く感じ、東京進出を決意する。一族を説得し、東京都京橋区入船町に松井組東京出張所を開設した。

この東京出張所の開設を機に、社寺建築のみならず一般建築へと広く業容を拡大することになった。現在の松井建築株式会社は、社寺建築のみでなく一般建築も手がけているが、これがきっかけだったのである。関東大震災で崩壊した帝都を復興させた後に、松井組は総合建設業としての基盤を築いていきました。

その後、震災の被害をうけた本願寺築地別院の復興作業を請負い、1934年(昭和9年)に竣工しました。その作品は東京の観光名所のひとつに数えられることとなり、松井組の名を一気に広めることとなった。

松井組は後に名前を松井建設株式会社に改名する。この本願寺築地別院は、松井建設株式会社と改名した今日でも、会社のシンボル的存在となっている。

株価は4倍以上 松井建設へ期待が集まる理由は?

松井建設株式会社の株価は、2011年から約4倍以上に上がっている。

その理由は「城郭や社寺の修復」である。昨今の日本は、地震や水害などの災害が相次いでいる。松井建設株式会社には、過去に熊本城の修復を行ったこともあり、災害時に壊れた城郭や社寺を修復できる技術がある。松井建設株式会社は、地震大国・日本の重要文化財を守れる会社なのだ。株価4倍という数値からも株主の期待が伺える。

松井建設株式会社は、『質素』・『堅実』・『地道』という経営姿勢をモットーにしている。今後もこの経営姿勢を守り、「社寺建築」で培ってきた豊富な経験と高度な技術を伝承し続けて欲しいものである。